2009年8月24日月曜日

ヘンデル《メサイア》

実は二十歳の頃まで、《メサイア》は苦手でした。大声で叫ぶソロと合唱、硬直したテンポ。バロック音楽自体もそんなものなんだと当時は勘違いしていました。

ある日、嫌いなはずの《メサイア》がFMで流れることになりました。解説は音楽学者の礒山雅さん。「ふーん、聴いてやるか」と不遜なことを思っていたら…。驚きました。流れてきたのは、それまでのイメージとはまったく違う《メサイア》だったからです。私は耳をそばだてました。なんと透明で柔らかな響きなのでしょう。

聴き終えてFM 雑誌を見ると、音源は「英オワゾリール」。ああ、輸入盤かあ。地方の高校生だった私には入手できないと、その時はあきらめました。それがしばらくして、日本でも発売されたのです。すぐに LPを買って聴きました。ああ、これだ。これが《メサイア》なんだ、ヘンデルなんだ、バロックなんだ。こうして、私の意識の中で、勝手なバロック革命が起きたのでした。

ところが、「レコード芸術」という雑誌では、ホグウッドの《メサイア》は「田舎の教会のような演奏だ」と酷評されていたのです。私は憤慨しました。評論家なんて何も分かっちゃいない、と。

このLPレコードは、音が瑞々しく、《メサイア》を今でも聴こうとすると、この盤を手に取ってしまいます。特にソプラノのエマ・カークビーの声は美しいを超越して凄いと感じます。たしかに合唱には少年が加わっているため、決して巧いとは言えませんが、自分も一緒になって歌っていいのではないかと思えるほどに、親近感を感じる演奏ではないかと思います。

私にとって音楽は、偉大な作曲家の、偉大な作品を、偉大な演奏家が演奏するのを、有り難く拝聴するというよりも、まず第一に自分が音を出すものだと思ってきました。ですから、偉大な演奏家でもなんでもない私にとって親しみのある演奏に「田舎の教会」という評価が下されたのは、今となっては褒め言葉にさえ聞こえるから不思議です。

さて、今となってはLPの入手は難しいので、CDをご紹介いたします。

メサイア*オラトリオ(ユニバーサル POCL-4166/7) 演奏:クリストファー・ホグウッド指揮、エンシェント室内管弦楽団、オックスフォード・クライスト・チャーチ聖歌隊、ジュディス・ネルソン(Sop)、エマ・カークビー(Sop)、キャロリン・ワトキンソン(Alt)、ポール・エリオット(Ten)、デイヴィッド・トーマス(Bass)、サイモン・プレストン(合唱指揮)

2009年8月23日日曜日

夏の宿題

今日は近所にハゼ釣りに行きました。
水辺では子どもたちもはしゃいでいました。
子どもにとって夏は、海や山で跳ね回るにはもってこいの季節です。
私も子どもの時には、毎日毎日遊び回っていました。
けれども、そのツケが8月の終わりにやってきます。
そうです。夏休みの宿題です。

宿題と言えば、私には自分で課した宿題があります。
かつて私の恩師の一人である作曲家の近藤譲さんが
何かの対談である音楽学者と話していました。
たしか近藤さんは、音楽学的な知識があったからといって、
音楽の聴こえ方は変わってくるのか、
というニュアンスの意見をおっしゃっておられました。
当時、音楽学を学んでいた私にとって、これは一種の挑戦状のように思えました。

それまで私は、大好きな音楽について、
知識を貯えることに躍起になっていたのですが、
知識や考えによって、音楽の聴き方や理解の仕方がどう変わるのかという方向へと
興味がシフトしたことを覚えています。

けれども、その後、さまざまな事情があって、私は研究の道を断念しました。
恩師の言葉はそれから、長い「夏休み」をもらった私の宿題となりました。
このささやかなサイトは、宿題のためのノート代りにもなっています。

蝉は地上で一週間の命です。

アリ・ハーンの《ハムド》

宗教音楽はなにもキリスト教の専売特許ではありません。
音楽を礼拝に用いないはずのイスラーム教にも宗教音楽はあります。
パキスタンのスーフィズム(神秘主義)の「カッワーリー」もその一つ。

カッワーリーの中でも、
ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの音楽は特に名高いものです。
今から20年くらい前、私はアリ・ハーンの音楽とFMで出会いました。
ラジオから流れてきた音楽は、
たしか「唯一の神アッラーをたたえる歌」と題されていたと記憶しています。
それが《ハムド》です。

ハムドは、二人のソリストの重唱で始まり、
やがてテンポのよいアンサンブルにかわります。
そして所々で「アッラー」のあいの手が入ります。
そしてまたソリストたちの技巧的な歌が繰り返され、
聴き手は陶酔の境地へと誘われることになります。
この陶酔の境地で神に出会うというのが、スーフィズムの極意なのです。

カッワーリーで面白いのは、ソリストが自分の技巧を展開する部分の中に、
インドの階名を歌詞のかわりにして即興的に歌われるフレーズがあることでしょうか。
これはそもそも、インドの正統的な音楽理論も習得していることの証だったようです。
たしかに耳をすますと「サリガマパダニ」という階名が聴こえます。

どのような宗教の音楽であるかは別として、
音楽の場に人が集い、響きを分かち合うとき、
不思議な力が私たちを包むことは確かであるように思います。

暑い時には熱くて辛い料理が合うように、熱い音楽がやっぱり良いですね。

Nusrat Fateh Ali Khan:En Concert A Paris 1(仏Ocora C581658 輸入版)

2009年8月10日月曜日

谷川に水はない

Sicut cervus desiderat ad fontes aquarum,
Ita desiderat anima mea ad te Deus.

1581年、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂の聖ジュリア礼拝堂。当代きっての巨匠パレストリーナは、詩編42番第1節の詩句に清明な音楽を付け、澄み切った礼拝堂の空間に聖歌隊の荘厳な声を響かせました。今日でも《谷川慕いて》の題名で知られるモテットの佳曲です(音楽そのものをご存知ない方は、お手数ですが右のバーのリンク(Music)の中からたどって、作曲家Palestrina、曲名Sicut cervusで楽譜と音源を探してみてください)。

この曲の歌詞は、ヴルガタ訳聖書(ラテン語聖書)に基づいていますが、次のように訳すことができます。

泉に水を探し求める鹿のように、
そう、わたしの魂は、神よ、あなたを求めています。
(筆者訳)

この訳から一般の日本人がイメージするのは、緑濃い山の中、こんこんと湧き出す泉の水を飲みに来た鹿というのどかな風景でしょう。パレストリーナの音楽が醸し出す雰囲気もまた、そのような潤いに満ちたもので、歌詞と音楽の組み合わせには何の違和感もないように感じらます。
けれども、この詩編の舞台は、実は乾き切った砂漠か岩山で、水は一滴もないというのが事実なのです。それはどういうことなのか、聖書を紐解きながら考えていきたいと思います。

まず、ヴルガタ訳→イタリア語→日本語と訳された『バルバロ訳』聖書を見てみると、次のようになっています。

牝鹿が小川の流れを慕うように、
私の魂は、あなたを慕う、神よ。
(フェデリコ・バルバロ訳『旧約新約聖書』。ドンボスコ社。1964年)

次に、カトリックの聖書である『バルバロ訳』に対し、プロテスタント系の『口語聖書』はどうなっていたでしょうか。

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。
(日本聖書協会編『聖書』。日本聖書協会。1955年)

このように「小川」「谷川」と、やはり牧歌的なイメージが並んでいますね。
ところが、ヘブライ語で書かれた詩編42番のオリジナルを読むと、先述した対照的なイメージが立ち現われるのです。ヘブライ語から直接日本語に訳された『新共同訳』で見てみましょう。

涸れた谷に鹿が水を求めるように、
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
(日本聖書協会編『聖書 新共同訳』。日本聖書協会。1987年)

谷が涸れているのですから、水はどこにもありません。鹿がごくごくと水を飲んでいるイメージが崩れ去ります。「涸れた谷」とは、「ワディ(ワジ)」と呼ばれる、雨季の時にだけ出現する水のない川のことで、地理の教科書にも出てきます。乾ききった荒れ地の中、鹿が水を求めて、今にも倒れそうになりながらさまよう光景が浮かんでこないでしょうか。

さて、イスラエルは紀元前6世紀、新バビロニアの前に敗れ、多くの人びとがエルサレムからバビロンへと連行されました。いわゆる「バビロン捕囚」です。詩編42番は、その絶望の中で書かれたと言われています。ですから、鹿の渇きは、詩人とイスラエルの民の心の渇きに他ならないのです。
ワディという絶望の世界。しかし、イスラエルの民はよく知っています。雨季になり恵みの雨が降れば、涸れた川には水が満ち、その後、荒れ野には色とりどりの花が咲くのです。そしてこう考えます。「神がこうした仕打ちをするのは、自分たちに罪があったからにちがいない。しかし、神は決してお見捨てにならない。この試煉の時を乗り越えれば、いつか必ず救われる」と。

このようにして、我々の知るユダヤ教は生まれ、その教えは体系化されながら書き残されました。そして、囚われた人びとは、新バビロニアを滅ぼしたペルシャのキュロス大王によって、エルサレムへの帰還を許されたのでしたた。

さて、音楽に話を戻しましょう。
パレストリーナは的外れな音楽を作ってしまったのでしょうか? 

そう思うひとがいても不思議ではありません。けれど、当時の聖書が「涸れた谷」を「泉」や「谷川」としていても、パレストリーナは第2節以降を読んでいるでしょうから、詩編42番が描く苦難の状況を誤解するはずはありません。また、パレストリーナは、バビロン捕囚の様子を描いた詩編136番の詩句に痛切な音楽を付けています(《バビロン川のほとり》)。パレストリーナは、単純に教会の要請にしたがって、このような曲調で作曲しただけかもしれません。

結局、私には、事実は分かりませんが、いずれにしても、この歌を聴く時、口ずさむ時、美しさの後ろにある強烈な何かを感じて、私は思わず居住まいを正してしまいます。

なお、詩編42番の解釈については、和田幹男さんのサイトがたいへん参考になります。



涸れ川
(ワディ)