2009年8月23日日曜日

夏の宿題

今日は近所にハゼ釣りに行きました。
水辺では子どもたちもはしゃいでいました。
子どもにとって夏は、海や山で跳ね回るにはもってこいの季節です。
私も子どもの時には、毎日毎日遊び回っていました。
けれども、そのツケが8月の終わりにやってきます。
そうです。夏休みの宿題です。

宿題と言えば、私には自分で課した宿題があります。
かつて私の恩師の一人である作曲家の近藤譲さんが
何かの対談である音楽学者と話していました。
たしか近藤さんは、音楽学的な知識があったからといって、
音楽の聴こえ方は変わってくるのか、
というニュアンスの意見をおっしゃっておられました。
当時、音楽学を学んでいた私にとって、これは一種の挑戦状のように思えました。

それまで私は、大好きな音楽について、
知識を貯えることに躍起になっていたのですが、
知識や考えによって、音楽の聴き方や理解の仕方がどう変わるのかという方向へと
興味がシフトしたことを覚えています。

けれども、その後、さまざまな事情があって、私は研究の道を断念しました。
恩師の言葉はそれから、長い「夏休み」をもらった私の宿題となりました。
このささやかなサイトは、宿題のためのノート代りにもなっています。

蝉は地上で一週間の命です。

6 件のコメント:

torajiro さんのコメント...

☆☆☆データベースのクラッシュで消えたコメントです☆☆☆


1. 菅野茂 wrote:

近藤さんは僕がヨーロッパに出る直前にNHK・FMの現代の音楽の解説で親しいですね。当時は現代音楽を語れる若手は彼しかいなかったのですね。彼は今年は Wittenでコンサートが会ってケルン大学で講義したらしいですが、僕は日本にいたためにあいにく入れ違いになり聴くことはできませんでした。

僕が思うには音楽はその知識があれば理解力が深まると思います。でも聴き方が変わるのではなくて、更に音楽そのものにより近づくことができると思っています。

Reply to this comment | 2009年9月14日 @ 17:57
2. torajiro wrote:

このテーマは、じっくりと議論したいですねえ。
音楽学者の端くれとしての私と
作曲家であり演奏家でもある菅野さんと
たぶん立場は違って当たり前なのだけれど。

「音楽そのもの」って何でしょう?
作曲家にとって、自分の作品そのものって?

Reply to this comment | 2009年9月15日 @ 00:45
3. 菅野茂 wrote:

ああー、それ言い出すと終わりがありません。結局誰もわからないようです。じゃやらないほうが良いかというとそうでもなくて、それについて考えること事態が、思考の活性化につながり、他の文章力を豊かにするようです。自分の作品の場合はとにかく尽きることのない新しい美・真実の追求でしょう。それで音楽を書くという行為で示しているのでしょう。音楽の本質?あるのですが、それに当てはまる言葉が存在しないようです。

作曲家にとっては音楽学者は我々のメモリー役として必用なのです。自分がすべてを知っているわけではないですからねえ。特に誰かのラテン語能力は貴重ですねえ。日本の大学ではラテン語を学べるところはほとんどないと思います。僕もその犠牲者の一人ですね。カトリックじゃなくともここの合唱やっているとラテン語は必携のようです。

Reply to this comment | 2009年9月15日 @ 17:45
4. torajiro wrote:

ラテン語といっても、大学で2年間、初歩の初歩を学んだだけでして、
音楽だけの話なら、そんなもんで間に合うかと思います。

ただ、その後、キリスト教についてもより深く知りたい思って
ゆっくりですが独学で勉強もしています。
そうなると欲が出てきて、ギリシア語もヘブライ語もとなります。
ヘブライ語は先生を見つけることができ、教科書もありますが
なかなか難しいですね。

なぜ、このように言語を学びたいかというと、
キリスト教の音楽の歌詞となっている聖書の理解のためです。
たとえば、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》の第6楽章で
最後の審判の様子が音楽で描写されています。
ラテン語のレクイエムやヘンデルの《メサイア》でも
最後の審判の光景が歌詞となっており、
その光景が音楽でも描写されています。
そうした作品では最後の審判を告げるラッパは
おおむねトロンボーンやトランペットのファンファーレなのですが
ブラームスが書いた音は、ファンファーレには聴こえません。
どうもユダヤのショファールに聴こえるのですね。
ショファールとは、大きな角で作った角笛で、
聖書の中ではジェリコの包囲戦など、随処に出てきます。

で、ラテン語の聖書(ヴルガータ訳)では、「ラッパtuba」となっているのが
本来はショファール(角笛)なのではないかと考えています。
そして、ブラームスは、どういうわけかそれを知っていた。
私の投稿のパレストリーナのモテットの場合と同じことです。

ラテン語についてお返事したつもりが
音楽理解のための知識の役割について書くことになりました。
ということで、また。

Reply to this comment | 2009年9月16日 @ 09:57

菅野茂 さんのコメント...

やはりこちらは仕事上良くラテン語で引っかかるので喉から手が出るほどやりたいですね。
やはり人生は極度に短いです。

torajiro さんのコメント...

ラテン語を勉強したいということですか?
それとも主立ったレパートリーの歌詞の対訳でも用意すれば済みますか?

実は、宗教音楽の対訳集を作ろうと思っているので
後者でしたらすぐに取りかかりますよ。

菅野茂 さんのコメント...

もうチャンスはないですね。

ミサやレクイエムなどの対訳はもうあるでしょう。
そうではなくて合唱の時間などにとっさに質問されるのですよ。
突然何質問されるかわかりませんから用意しても無駄でしょう。

torajiro さんのコメント...

それは困った話ですねえ。
質問は発音ですか? それとも意味?

菅野茂 さんのコメント...

両方ありますよ。
発音は大体イタリア語風で良いようです。
意味は大変だなあ。でも通常文程度だったら丸暗記で大丈夫。
問題はオルフの「カルミナ・ブラーナ」のような不規則なテキストね、あれは困る!
まあ誰かは宗教音楽には入れないかもしれないけれど、
そう言えばストラヴィンスキーの「エディプス・レックス」はラテン語のオペラ・オラトリオですね。