2009年10月22日木曜日

ミヒャエル・ハイドンのミサ曲(1)

「ミサ曲のつくりかた」のための下書きとして、昔書いた論文をアップしておきたいと思います。読み直しと手直しをしながらになります。
ちなみに、ミヒャエル・ハイドンMichael Haydnは、1737年生まれのオーストリアの作曲家で、有名なハイドンの弟。ザルツブルクで活動し、モーツァルトにも影響を与えています。

第1章 ミヒャエル・ハイドン当時のウィーン・ザルツブルクのミサ曲

キリストとその弟子たちとの最後の晩餐を記念して執り行なわれる感謝の典礼がミサ聖祭である。Jungmannによれば、ミサ聖祭は常に賛美、感謝、嘆願、それに贖いといった基本的な目的を備えていた。(注1) ミサ聖祭においては、その初期から音楽が重要な役割を果たしていた。その中でも、日曜日や多くの祝祭日に共通する言葉(通常文)から聖歌隊により歌われるようになったもの(通常唱)、すなわち、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイの5章は「ミサ曲」という1つの曲種として確立された。ミサ曲は、演奏の場であるミサ聖祭の在り方に左右される。それゆえ、ここでは、ミヒャエル・ハイドン当時、すなわち18世紀中葉から終わりにかけてのウィーン・ザルツブルクにおけるミサ聖祭の状況、及びミサ曲の音楽様式について踏まえておきたい。本章は、ミヒャエル・ハイドンのミサ曲研究に当たってのいわば「歴史的背景」であり、彼のミサ曲分析に際しての観点、指標も示されよう。

第1節 典礼におけるミサ曲
18世紀のウィーン・ザルツブルクにおいてミサ曲が演奏される場は、教会あるいは修道院で催されるミサ聖祭のみであった。(注2)そのミサ聖祭には、日曜日や特定の祝日に執り行なわれるものの他に、信者が自発的に捧げる「随意ミサMissa votiva(ラテン語)、Lobamter(ドイツ語) 」があった。これらのミサ聖祭には、ミサ曲以外にも多くの音楽が含まれていた。こうした歌ミサ(Missa cantata)の構成は、以下のように纏められる。

表1-1 18世紀ローマ・カトリックの歌ミサ(注3) →PDFファイルを見る

18世紀のウィーン・ザルツブルクのミサ聖祭における音楽の演奏は次のように行われていた。(括弧内の番号は上記の表1-1の番号と一致する。)

1.ミサ聖祭の前にオルガン・プレリュード、続いてトランペットとティンパニーのためのイントラーダが演奏される。
2.Asperges me 、Tantum ergo 、Vidi aquam(1)はグレゴリオ聖歌、もしくは多声楽曲。
3.入祭唱(2)はグレゴリオ聖歌によることが多い。
4.キリエ(3)、グローリア(4)。
5.昇階唱(7)の箇所では器楽曲が演奏される習慣があった。1780年代までは「書簡ソナタSonata all'Epistola(注4) 」、また、交響曲(“Sinfonia da Chiesa ”(注5) )が演奏された。1780年代の典礼音楽刷新政策の過程で、そうした器楽曲に替わって多声の聖歌が歌われるようになった。
6.アレルヤ唱、詠唱、続唱(8)はグレゴリオ聖歌、もしくは多声楽曲。
7.福音書朗読(9)の後でイントラーダが演奏されることもあった。
8.クレド(11)。
9.奉納唱(12)はモテット、もしくは器楽曲となる。
10.サンクトゥス(15)は、聖変化を間に、“Sanctus ”と“Benedictus”の2楽章となる。
11.聖体奉挙の箇所でオルガンが演奏される。
12.アニュス・デイ(19)。
13.聖体拝領唱(20)はグレゴリオ聖歌、もしくは多声楽曲。
14.Ite, missa est(22)はグレゴリオ聖歌。
15.ミサの後でオルガンのポストリュード、続いてイントラーダが演奏される。

以上のことから、当時のウィーン・ザルツブルクのミサ聖祭が一種の「コンサート」の様相を示していたことがわかる。しかし、こうした音楽の在り方は一定不変であったわけではなく、その時、その場所での教会、政治権力者の典礼に対する神学・思想上の姿勢、また政治・経済面からの要請により変化するものであったことに注意しなければならない。そこで18世紀中葉以降のミサ聖祭に関する諸法令、諸禁令を踏まえておきたい。
1749年2月19日、ローマ教皇ベネディクト14世は、回勅《Annus qui 》を発布した。それによれば典礼における音楽の役割とは「信者の心に祈りと信仰を呼び起こす」ことであり、そのためには「世俗的、また劇場的に聴こえない」こと、さらに「言葉が完全に」(注6) 聴こえることが主張されている。これらの目的を達するための具体的手段として、ティンパニー、ホルン、トランペット、フルート、プサルテリー、リュートといった劇場で使用されていた楽器を禁じている。教会が危険視していたのは、ナポリ派のオペラの音楽様式であり、その様式は実際、アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725) らによって、ミサ曲にも導入されていたのである。この回勅を受けて、まずウィーンの大司教顧問室Konsistoriumが1753年12月24日、続いて宮廷が宮廷訓令Hofreskript の形で、トランペットとティンパニーの礼拝と行列での使用禁止を命じたが、この禁令は1767年に解除されるまでの間、それほど厳格には守られなかったようである。また、この禁令は、ミサ聖祭においては、イントラーダにのみ適用されたのかもしれない。(注7)
18世紀は「啓蒙主義」の世紀であった。一方、18世紀のローマ・カトリックの典礼、とりわけ荘厳なミサ聖祭においては、会衆は出席はしているものの、理解不能なラテン語による華麗な出来事の「観衆」に過ぎなかった。そこでウィーンではヨーゼフ2世、ザルツブルクではコロレード大司教といった2人の啓蒙君主が、教会音楽の刷新に乗り出すこととなる。
ヨーゼフ2世(1741-90)は、1764年に戴冠して母マリア・テレジアと共にオーストリアの統治者となり、1780年にマリア・テレジアが没すると名実共にオーストリア皇帝の座に就いた。当時のオーストリアは、オスマン・トルコとの長期に亘る戦争により経済的に疲弊し、フランス革命の余波を被りかねない状況にもあった。そうした中でヨーゼフ2世は、政治、経済、宗教他多方面での改革を推進していく。その土台となったのが「ヨーゼフ主義Josephinism 」である。ヨーゼフ主義は、啓蒙思想のオーストリア的表明であると共に、国家とローマ・カトリック教会の力関係を変え、国家主導とすることを目指すものであった。(注8) 教会音楽に関する改革の中には、祝祭日の削減(47日から27日へ)、楽器使用の制限(トランペットとティンパニー)、会衆の典礼参加(自国語聖歌の導入)が含まれている。1783年2月25日付(同年4月20日より発効)の宮廷訓令Hofrescriptは、次のように命じている。

「聖シュテファン大聖堂及び聖歌隊を常備している教会においては、ミサは毎日執り行なわれる。これは季節に応じてオルガン伴奏付、あるいは無しの、歌われるミサである。」
「日曜日と祝日においては、盛儀ミサは各教区の教会で、器楽の参加により執り行なわれる。また、楽器が入手不可能ならば、歌われる。」(注9)

ヨーゼフ2世は啓蒙主義の立場から、ミサ聖祭への会衆の参加と理解をを目的として、自国語、すなわちドイツ語によるミサ聖祭を推進する。それは、ミサ聖祭自体は以前の構成(表1-1を参照)に拠りながら、これまでは聖歌隊が歌っていた通常唱を会衆が歌うようにする、といった刷新であった。この「ドイツ・ミサ」のために幾つかの聖歌集が新たに作られたが、その中で最も好まれたのが、フランツ・ゼーラフ・コールブレンナーFranz Seraph Kohlbrenner(1728-83)の聖歌集(Landshut,1777)であった。
ザルツブルクにおいても、啓蒙主義を信奉するヒエロニムス・コロレードが、1772年に領主大司教に着任し、ヨーゼフ2世と同一歩調をとりつつ教会音楽の改革を推進していった。それは、ミサ聖祭自体の時間短縮に伴うミサ曲の時間制限に始まり、1783年には書簡と福音書の朗読の間の昇階唱における器楽曲「書簡ソナタ」の代わりに合唱曲を置くことを命じ、さらにはドイツ・ミサの導入に至る一連の改革となった。モーツァルト、ミヒャエル・ハイドンはその時間制約に従ってミサ曲を書き、昇階唱の聖歌とドイツ・ミサの作曲を命じられたのはミヒャエル・ハイドンであった。
しかしこれらの諸改革も、オーストリアではヨーゼフ2世の死(1790)、ザルツブルクではナポレオン軍の占領(1800)を以て終わりを迎えるのであった。それでは以上の状況を踏まえた上で、典礼においてミサ曲が具体的にとる形態について考察したい。
ミサ曲の分類に際しては、一般に、通常の日曜日、または小さな教会のための「ミサ・ブレヴィスmissa brevis(短かいミサ)」と、荘厳に祝われる祝祭日や特別の機会のための「ミサ・ソレムニスmissa solemnis(荘厳ミサ)」の用語が使用されてきた。しかし、典礼用語としてのミサ・ソレムニスは、全ての言葉が歌われる「歌ミサ missa cantata」を意味し、その対義語は言葉全てが朗読される「読誦ミサ missa lecta」である。実際、ミサ曲の当時の分類法では、これらの用語は使用されていなかった。それゆえ、今日の視点からミサ曲を考察するに当たっても、これらの用語法は吟味する必要がある。
18世紀ウィーン・ザルツブルクの典礼法規、主題目録、音楽理論書、音楽辞典における分類、それに楽譜に記された題名を見れば、当時のミサ曲が、演奏の機会(祝日の名、「主日の de Dominica」)、編成(「声のvokale」)、様式(「対位法による in cotrapunto」)、また長さ(「短かいbrevis」)といった様々な基準により命名、分類されていたことがわかる。(注10)実際、ミサ曲の在り方そのものも、それが作曲された時期、それに演奏が意図されていた場所の習慣により、多様であった。
上記の問題点を踏まえた上で、MacIntyreは、当時のウィーンにおけるミサ・ブレヴィスとミサ・ソレムニスの音楽上の一般的特徴を次のようにまとめている。(注11)

〈ミサ・ブレヴィス〉
・各通常唱内の楽章数が少ない。多歌詞といった手段で楽曲の短縮化がなされる。
・教会トリオ(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、オルガン)を核とする小編成。
・合唱主体で独唱は合唱に組み込まれる。
〈ミサ・ソレムニス〉
・各楽章が合唱、アリア、重唱、フーガといった幾つかの曲目から成る、いわゆる「カンタータ・ミサ」の形をとる。
・トランペットとティンパニーを伴う、大編成のオーケストラ。
・通常ハ長調による。

しかし、これらの特徴は決して固定的でも排他的でもないことに注意しなければならない。18世紀後半のウィーンでは、典礼の簡素化、また音楽上の趣味の変化により、ミサ・ソレムニスの楽章数は減少する傾向にあった。ミサ・ソレムニスの楽章構成に、ミサ・ブレヴィスのそれが導入されたのである。ザルツブルクにおいても、ミサ・ソレムニスの「ミサ・ブレヴィス化」、ないしはミサ・ブレヴィスの拡大が、典礼上の要請を契機に行われていた。1772年、病死したシギスムント・シュラッテンバッハSigismund Christoph Schrattenbach の後任としてザルツブルクの領主大司教に着任したヒエロニムス・コロレードHieronymus Colloredo は、教会音楽の刷新に取り組んだ。彼がまず命じたのは、ミサ曲の時間短縮であった。それは1776年9月4日付のボローニャのマルティーニ神父宛のW.A.モーツァルトの書簡からも明らかである。

「キリエ、グローリア、クレド、ソナータ・アレピストラ、オッフェルトリオ、あるいはモテット、サンクトゥス、それにアニュス・デイのすべてを含むミサ、さらにもっとも荘厳なミサですら、大司教御自身がじきじきに取りおこないますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです。この種の作曲には特別な勉強が必要であります。それにあらゆる楽器-軍隊用トランペット、ティンパニ等を伴ったミサ曲であることが要求されます。」(注12)

ザルツブルクにおけるこうした短かいながらもトランペットとティンパニを伴うミサ曲は、“Missa brevis et solemnis”と呼ばれていたことが、Walther Sennの研究により明らかとされている。(注13)次に示すモーツァルトのミサ曲の小節数、編成の表中の下線を付したミサ曲を参照されたい。

(ここで編集が息切れです。続く)

10 件のコメント:

torajiro さんのコメント...

自己レスですが、専門分野の内部での論文というのは、ほんとに解りにくいですね。専門家でも、ちょっと興味がずれると途端に解らなくなるレベルです。

菅野 さんのコメント...

ここ消したといってまだ書けるようです。更に混乱してきました。

余りカトリックの細かい規則書いてもどれだけの人が興味あるかでしょう。神父志願の神学生くらいかも?

torajiro さんのコメント...

菅野さん、逆ですよ。
消したのは、あっちです。

この投稿は自分でもかなり難しいことには気づいていますが、どこが難しいのかを明らかにしたくて書いてます。
なにせ15年以上前の論文なので、当時はいいかなと思っていたのが、どうもそうではないのです。まあ、気になるところがもしあれば、何なりとおっしゃってください。

いずれ、まとまったら、「図書館」に移動します。

菅野 さんのコメント...

やはり本命のほうのこっちの方が書きにくいです。

今日はカンタータの49番でした。2日前にボンの教会でめぼしい宗教音楽のチラシを拾ってきました。十字架教会で30日はメンデルスゾーンの第五交響曲と「クリストス」、ベッカーの宗教改革カンタータ、Op.28.11月15日はメンデルスゾーンの「エリア」全曲ですね。最近ほとんど行けませんが。

torajiro さんのコメント...

そうなんですよ。コメントを見にくい、書きにくい、というのは問題なんです。

メンデルスゾーンの宗教曲はドイツでは何だか頻繁に演奏されてますね。

菅野 さんのコメント...

毎週気軽にどっかでやっているでしょう。教会の合唱団ですね、ソリストとオケは寄せ集めが多いです。指揮はそこの教会音楽家がやりますね。もちろんあれはほんの一部です。昨日のはクロイツキルッヒェだけですね。ちらっと見たので持って来ました。

Kan-no さんのコメント...

あっちのHPには書いて来ないようなのでこちらのリンク消しときますね。

Kan-no さんのコメント...

何か左上のところを押して新しい項目を作成しましたが、ここには関係ないようですね。結局自分のブロクになっちゃいました。まあ良いか!ここからリンクでつなげてくれると行きやすいので助かります。
http://kan-no.blogspot.com/2009/10/blog-post.html

菅野 さんのコメント...

ドイツのポスト・アドルノの音楽学者では最大の、ハインツ=クラウス・メツガーがベルリンで死去。77歳。

オテモヤン さんのコメント...
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