2009年9月21日月曜日

(1) 曲当てクイズ

この《レクイエム》が誰のものかって?
イントロのメロディは……。ああ、ガスマンだね。あれ、ヘンデルっぽいところもあるぞ。これは「メサイア」だ。うーん、ゴセックとも似ているな。「Domine Jesu Christe…」ミヒャエル・ハイドンのと作りも歌詞の割り振りもそっくりじゃないか。「Sanctus…」 驚いた。これはバッハの長男フリーデマンのパクリだ。
こんなに曲を知っていて、うまくつなぎ合わせる力量はなかなかのもんだ。それに、パクリだっていうのに、こんなに素晴らしいというのはのは…。「Confutatis」の地獄の劫火とひたすらな祈り。「Lacrimosa」なんて、涙が出るほど痛切だった。

これを誰が作曲したのかって? ガスマン、ハイドンの弟が入っているのだから、オーストリアの作曲家だろうよ。ゴセックっぽいところもあるから、フランスへ行ったことがあるんじゃないか。ヘンデルを勉強したことがあって…、大バッハがらみの楽譜を見ることができる奴は限られている。そして、曲の素晴らしさといえば…。

そうだ。モーツァルトだ。

上はもちろん架空の曲当てクイズです。曲当てをしているのは、兄ハイドンか、ヴァン・スヴィーテンか、はたまたサリエリといったところでしょうか。モーツァルトの《レクイエム》(k.626)には、それだけ多くの巨匠たちの音楽が入り込んでいます。
天才たるモーツァルトともあろう者が、なぜこのような作曲法を選んだのか、というのが本小論のテーマです。

本論に進む前に、モーツァルトの略歴を振り返っておきましょう。

モーツァルトが生まれ育ったのはオーストリアのザルツブルク。ザルツブルクは日本で言えば、島根県の津和野のような小さな街です。山間いには川が流れ、山の上にお城があるところなどそっくりです。1756年、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ザルツブルクの宮廷音楽家レオポルトの家に生まれました。モーツァルトの生涯は、いろいろな本やサイトで読めるので、ここでは宗教音楽に的を絞っていきます。

アマデウスが天才児であることがわかって、父レオポルトは作曲の教育を始めます。だから、宗教音楽の最初の師匠も父レオポルト。たとえば、かつては K.115とされていたミサ曲は、レオポルトの《荘厳ミサ曲ハ長調》の筆写、もしくはミサ・ブレヴィスの形への転用改作であることが今日では判明しています。
また、レオポルトは息子とともにヨーロッパ中を演奏旅行に出かけたことが知られています。旅先では様々な作曲家と出会ったり、演奏を聴いて刺激を受けました。イタリアでは、ヴァティカンで門外不出の秘曲とされていたアレグリの《ミゼレーレ》を一度聴いただけで楽譜に写し取り(ただ、この曲の合唱部分は単純で、それが何度も繰り返される)、ロンドンでは、バッハの息子ヨハン・クリスチャン・バッハとも会っています。
また、ザルツブルクには有名なハイドンの弟ヨハン・ミヒャエル・ハイドンがいました。20歳ほど歳は離れていますが、ミヒャエルとヴォルフガングは堅い友情で結ばれていたようで、ミヒャエルの《死者のためのミサ曲(レクイエム)ハ短調》は、後にアマデウスの《レクイエムK.626》の下敷きとなるばかりでなく、《フリーメーソンのための葬送音楽K.477》で引用されています。
といっても、当時の引用やパロディとは、元の作曲者に敬意(リスペクト)を込めたものであることを忘れてはなりません。

モーツァルトの手紙や伝記を読むと、コロレード大司教との軋轢もあって、ザルツブルクはモーツァルトを縛り付けていたかのような印象を受けますが、彼の音楽の基礎には、ザルツブルク時代に身につけた音楽があります。次の章では、ザルツブルク時代の彼の宗教音楽について見ていくこととします。



Wolfgang Amadeus Mozart
(1756 Salzburg-1791 Wien

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