2009年9月18日金曜日

《旧約聖書の音楽》

キリスト教のルーツであるユダヤ教は歌う宗教です。しかし、古代ユダヤ教の音楽実践の伝統は一度失われ、どのような音楽が演奏されていたかはほどんど分かっていません。このレコードは、無理を承知で、古代ユダヤ教の音楽を復活させた試みです。

私からすると、この演奏はヨーロッパ的に洗練されすぎているような気がしますが、それでも興味深いことにはまったく変わりありません。とりわけ、キリスト教でも盛大に奏される詩編150番、それに、ユダヤ教では葬儀に用いられるヨナタンを悼む歌は、このアルバム全体の白眉と言えるでしょう。
このアルバムは、音楽学者による研究の成果であることに加え、遺跡から発掘された楽器を復元している点で、資料としてまことに貴重です。

ここ数年、キリスト教の音楽を学ぶだけではなく、キリスト教の歴史や聖書についての仕事に携わってきた私にとって、ユダヤ教はまだ見ぬ故郷のような存在になりつつあります。

Musique de la Bible révélée(廃盤)
仏harmonia mundi france HMA 190 989

1 件のコメント:

torajiro さんのコメント...

☆☆☆データベースのクラッシュで消えたコメントです☆☆☆


# 菅野茂 wrote:

要するに復元したということではヘブライ語と同じようですね。ユダヤ人は一旦国がなくなって他の民族の中で生きていたのでアラブ時如李のずーっと西洋化してますね。本当はキリスト教は日本人ではなくて駄目なユダヤ人のためにあるのですが。

Reply to this comment | 2009年9月17日 @ 19:05
# torajiro wrote:

そうそう。同じなんですよ。
ユダヤ人は、自分たちのアイデンティティを守るために
いつもたいへんな努力をしているわけですね。

私の知人はイスラエルで発掘にも参加した日本人ですが
イスラエルの人たちは入れ込み方が違うそうですよ。
第1級の考古学者が軍の総司令官だったりしますし。

ちなみに、私の最初の投稿のランプの写真は
その知人のランプに火を灯したもので
これはレプリカですが、
イエス時代のランプもあります。
これは、知り合いの神父さまに差し上げたら
たいそう喜んでおられました。

Reply to this comment | 2009年9月17日 @ 20:37
# 菅野茂 wrote:

でもそれが正確かどうかはわかりませんね。まあ多分アラビア音楽に近いのでしょう。

イスラエルは女性も兵役がありますからねえ。大変といえば大変。

カトリックの人は物質執着が強い傾向があるようです。それは日本では踏み絵などになって弾圧されるのですね。僕のキリスト教感はやはりあの十戒の偶像崇拝禁止から派生しますからシンボルとしての十字架も使いません。そういう意味ではイスラム教やユダヤ教・エホバの証人の考え方に近いですね。もちろんどれにも属していませんが、聖書を普通に読んで理解するとそうなるという意味です。僕には特に聖職者は要らないですね。ラテン語やギリシャ語・ヘブライ語の場合に時だけ必要ですが(笑)。

Reply to this comment | 2009年9月18日 @ 00:39
# torajiro wrote:

すみません、ここはカトリックの方もお見えになるので
特定の宗派への批判となるような書き込みはご容赦ください。

で、話を音楽に戻しますと
古代イスラエルの音楽の復元は
もちろん学問的な根拠なしに行われたわけではありませんが
想像で補った部分の割合は大きいことは確かです。

Reply to this comment | 2009年9月18日 @ 07:47
# 菅野茂 wrote:

寧ろカトリックの人と論議したいです。まだまだまだわからないことがたくさんあるのですね。いろいろな誤解を解くことはカトリックの人にも有益だと思います。僕は長年カトリック教会でも働いてきましたが、すべてがわかったとはいえないですね。もっと知りたいのが本音です。あなたがカトリックでも誰でもかまわないです。

音楽はある程度伝統的に受け継がれたとしても、ヘブライ語はもう見ても無理して人工的に作った言語としか思われないですね。今更必要か?という疑問はわかります。キリスト教を結果歴史論的に見ますと、結局はユダヤ人のためにあるものと思います。まず第一に聖書にそう書いてある!もちろん2000年前に予定通り信じなかったので異民族に行ったのですが、結局彼らの国もなくなり分散化して異民族に入ってそれに適応しない限り、苦難が待ち受けていたわけです。ここで適応するということはキリスト教を受け入れ、狭い民族意思から離れ、ドイツだったらごく普通のドイツ人として生きてゆくことでしょう。この前書きましたが、大体イスラエルに移住する人は右翼の民族主義が多いです。だから今も平和がなく苦難の連続なのでしょう。要するに異民族のキリスト教徒は信じないユダヤ人のために触媒の働きをしたわけです。従がって結局は聖書の記述は上手くできている。もちろんこの論法にはこの前書いた生まれ変わりの法則を前提としていますのでそれ以外では全く解けません。ということでどんどん面白い反論をお待ちしています。

Reply to this comment | 2009年9月18日 @ 17:16
# torajiro wrote:

まず、おわびです。
私の名前が書かれていたので、「あなた」に変えました。
本名を出してもいいようにも思うのですが
まだ考え中です。

それから私はカトリックではないので
カトリックの人の信仰のあり方は
やはり分かりません。
ですから、議論にはなりません。すみません。

それとイスラエル人については
私の友人は、豚やエビを食べないどころか
あらゆる動物を食べない人で
とにかく柔和な性格です。
いろんな人がいます。

Reply to this comment | 2009年9月18日 @ 20:38
# 菅野茂 wrote:

名前は出しても問題はないと思います。知名度も上がりますからねえ(笑)。今僕は葬式から帰ってきたとこです、次回は水曜日です。ストラヴィンスキーの3楽章の交響曲を聴きながら書いています。ここで彼の詩篇交響曲議論しても良いですね。でもラテン語知っている人に負けちゃうかな?そのときは音楽理論だけで勝負?

僕もカトリックではないですが、長い間良くかかわりました。もち論全部知っているわけではないですのが、その良いところや問題点はかなり経験しています。カトリックを攻撃しているように見えるかも知れませんが実はそうではありません。でもカトリックは全世界一律同じ考え方で同じ形式で礼拝などをしますから、ああだこうだと言い安いのです。これがプロテスタントとなるとみんな違いますから一律に言いにくいのは確かです。ピンからキリまであるということでしょう。

イスラム教徒もブタは食べませんね。僕は昔シュトットガルトでモロッコ人のアジズと住んだことがあります。冷蔵庫の中はいつも鶏肉と牛肉だけなので、彼を冷やかして、一緒に豚肉食べないかと良くからかったことがあります。たいした信心深くもないのにそういう習慣で育ったのでもう駄目のようです。菜食主義者だとインド人が圧倒的に多いですね。真面目な仏教徒はみなそれですね。僕は全然耐えられないですね。肉食?ええ罪深いです。でもそれがないと自分はとても生きてゆけないのですよ。結局自分には到底無理ですね。家の家内も肉は食べませんが、娘たちはみな肉を喜んで食べます。蛙の子はやはり蛙ですね。

Reply to this comment | 2009年9月18日 @ 23:01

* torajiro wrote:

《詩編交響曲》って、勝ち負けがつくような議論の論点ってありましたっけ?(笑)。

実は私は、『新カトリック大事典』でストラヴィンスキーの項目を執筆しました。
とはいえ、この曲は当分聴いていないです。
むしろ、私にとっては《ミサ曲》の方が馴染みがあります。

豚肉といえば、イスラエル人とパレスチナ人が一緒に日本に来て
焼き鳥屋で接待したことがありました。
日本側は好き嫌いで食べられないものがあって
複雑な注文をした記憶があります。

Reply to this comment | 2009年9月19日 @ 13:32

# 菅野茂 wrote:

ここもにぎやかになってきましたね。二人だけだけど(笑)。

詩篇交響曲に勝ち負け必要なのですか?ここでは演奏が多いですね。学生も素人も良く演奏します。

焼き鳥は両方食べないですか?彼らはいちいち大変です。

Reply to this comment | 2009年9月19日 @ 17:06
# torajiro wrote:

え、「ラテン語知っている人に負けちゃうかな?」とは
菅野さんの言葉でしたが(笑)。

焼き鳥は両方食べますが、
日本側はいろいろ食べたいのでいろいろ頼むわけです。
そうすると豚肉も来るから、
それを間違って渡しちゃいけない、ということです。
それから汁ものなんか頼んで
豚のエキスが入っていたらまずいですしね。