2009年9月13日日曜日

(1) ガリラヤ湖のほとりで

ここは、さわやかな風が吹き渡る丘。眼下には、湖水が日の光を受けてきらめいています。大勢の人々が丘を登ってきます。近ごろ評判になっている若いラビ(教師)の話を聞くために。老いも若きも男も女も耳を澄ませます。ラビは佇まいを正すと、丘の坂道に集う人びとに向かって、温かな声で朗々と語り始めます。(注1)

「トゥウベーオン……。」(注2)

一同は、その言葉に腰を抜かすほど驚いたはずです。なにしろ、絶望している者、悲しんでいる者こそ神様から祝福されるというのですから。けれども、その言葉は、砂漠に泉の水が染み込むように集まった人たちの心に入っていったに違いありません。

このラビ、ナザレ村に育った大工の息子、イェホシュアという男は、後にイエス・キリストと呼ばれることになります。(注3)



ガリラヤ湖


ヨハネス・ブラームスJohannes Brahms(1833-97)は、この「山の上の教え」(山上の垂訓)の一節を《ドイツ・レクイエムein deutsches Requiem》op.45の歌い出しの歌詞に選びました。

Selig sind, die da Leid tragen, denn sie sollen getröstet werden.
幸せだ、悲しみを抱く者たちは、なぜなら、彼らは慰められるからだ。
(マタイによる福音書5:4 筆者訳)

《ドイツ・レクイエム》は、こうして、かけがえのない者の死に対する悲しみが、やがて慰められ癒されることを穏やかに告げ知らせて始まります。クリスチャンならば、この一節を聞いただけで、はじめに描写したように、イエスがガリラヤ湖を臨む丘の上で群衆に説教したことを思い出すはずです。そして、教会音楽に関心のある方ならば、この作品が、従来の「レクイエム」、つまり、死者の安息を神に祈るための音楽ではなく、生き残って悲しむ者を癒しへと誘う音楽であることを理解するでしょう。

では、ブラームスが《ドイツ・レクイエム》で表現しようとした「癒し」とは、どのようなものであり、どのように音楽化されているのでしょうか。これが、このささやかな小論のテーマです。そこで、そうしたテーマについて考察を進めていく前に、基本的な知識と問題意識を共有しておきたいと思います。

まず、《ドイツ・レクイエム》に馴染みのない人のために、あるいは、いっそう共感したいという人のために、まず、必要最小限の情報を紹介しておきましょう。まず、音楽そのものを聴いていなければ理解も議論もありません。CDはいくつも出ていて、入手は決して難しくはありませんが、あえて1枚紹介するとすれば、ヘレヴェッヘ指揮の演奏です。

ブラームス:ドイツ・レクイエム op.45
ヘレヴェッヘ指揮、シャンゼリゼ管弦楽団、シャペル・ロワイヤル、コレギウム・ヴォカーレ他(仏Harmonia Mundi HMG501608)











それから、すぐには買えないけれど、今すぐ聴きたい人は、演奏の質と音質にこだわらなければ、こちらから全曲を聴くことができます。 

無料の楽譜(ヴォーカルスコア)を読みたい人は、こちらからダウンロードできます。


ブラームスの生涯と作品の概略を知りたい人はこちらを読んでください。

それから、《ドイツ・レクイエム》の歌詞全文と日本語訳を示しておきましょう。訳は日本語訳聖書の転載ではなく、できるかぎりドイツ語の意味を活かした訳としています。

●第1楽章
Selig sind, die da Leid tragen,
幸せだ、悲しみを抱く者たちは、 
denn sie sollen getröstet werden.
なぜなら、彼らは慰められるからだ。
(マタイによる福音書5:4)

Die mit Tränen säen,
涙とともに種を蒔く者は、
werden mit Freuden ernten.
喜びのうちに収穫するようになる。
Sie gehen hin und weinen und tragen edlen Samen,
彼らは出て行く、泣きながら、尊い種を携えて、
und kommen mit Freuden und bringen ihre Garben.
そして喜びとともに、束を抱えて戻ってくる。
(詩編126:5,6)

●第2楽章
Denn alles Fleisch ist wie Gras
肉体はすべて草のようであり
und alle Herrlichkeit des Menschen
また、ひとの栄華はすべて
wie des Grases Blumen.
草の花のようだ。
Das Gras ist verdorret
草は枯れ、
und die Blume abgefallen.
そして花は散る。
(ペトロの手紙一1:24)

So seid nun geduldig, lieben Brüder,
だから今は耐えるのだ、愛しい兄弟たちよ、
bis auf die Zukunft des Herren.
主の未来(来臨のこと)まで。
Siehe, ein Ackermann wartet
見なさい、ひとりの農夫が待っている、
auf die köstliche Frucht der Erde
大地の価値ある実りを、
und ist geduldig darüber,
そして彼は辛抱強い、  
bis er empfahe den Morgenregen und Abendregen.
朝の雨と夕べの雨を迎えるまで。
(ヤコブの手紙5:7)

Denn alles Fleisch ist wie Gras
肉体はすべて草のようであり
und alle Herrlichkeit des Menschen
また、ひとの栄華はすべて
wie des Grases Blumen.
草の花のようだ。
Das Gras ist verdorret
草は枯れ、
und die Blume abgefallen.
そして花は散る。
Aber des Herrn Wort bleibet in Ewigkeit.
しかし、主の言葉は永遠に残る。
(ペトロの手紙一1:24,25)

Die Erlöseten des Herrn werden wieder kommen,
主に救われた人は戻り来て、
und gen Zion kommen mit Jauchzen;
そして歓呼とともにシオンへと来る。
ewige Freude wird über ihren Haupte sein;
永遠の喜びが彼らの頭上にあり、
Freude und Wonne werden sie ergreifen
喜びと歓喜が彼らを迎え
und Schmerz und Seufzen wird weg müssen.
嘆きと悲しみは去って行く。
(イザヤ書35:10)

●第3楽章
Herr, lehre doch mich,
主よ、私に教え給え、
daß ein Ende mit mir haben muß,
私に終わりがあることを、
und mein Leben ein Ziel hat,
私の命に最期があることを、
und ich davon muß.
そして私がそこから去らなければならないことを。
Siehe, meine Tage sind einer Hand breit vor dir,
ご覧あれ、私の日はあなたの前では手の幅ほどのもの、
und mein Leben ist wie nichts vor dir.
私の命はあなたの前では無いようなもの。
Ach, wie gar nichts sind alle Menschen,
ああ、すべての人は何とむなしいことか、
die doch so sicher leben.
彼らはたしかに生きているとしても。
Sie gehen daher wie ein Schemen,
彼らは影のようにさまよい、
und machen ihnen viel vergebliche Unruhe;
多くの空しい騒ぎを引き起こす。
sie sammeln und wissen nicht,
彼らは蓄えながら知らないのだ、
wer es kriegen wird.
それが誰のものになるかを。
Nun Herr, wes soll ich mich trösten?
では主よ、私は何を慰めとすればいいのか?
Ich hoffe auf dich.
私はあなたに望みをかける。
(詩篇39:5-8)

Der Gerechten Seelen sind in Gottes Hand
正しい者の魂は神の御手にあって
und keine Qual rühret sie an.
いかなる苦痛も届くことはない。
(知恵の書3:1)

●第4楽章
Wie lieblich sind deine Wohnungen,
あなたの住まいはなんと愛らしいことか、
Herr Zebaoth!
万軍の主よ!
Meine Seele verlanget und sehnet sich
私の魂は切に望み憧れる
nach den Vorhöfen des Herrn;
主の前庭に対して。
mein Leib und Seele freuen sich
私の体と魂は喜ぶ、
in dem lebendigen Gott.
生きている神の前に。
Wohl denen, die in deinem Hause wohnen,
幸福な人だ、あなたの家に住む人、
die loben dich immerdar.
あなたを常に賛美する人は。
(詩篇 84:2,3,5)

●第5楽章
Ihr habt nun Traurigkeit;
今あなたたちは悲しんでいる。
aber ich will euch wieder sehen
しかし、私は再びあなたたちと会う
und euer Herz soll sich freuen,
するとあなたたちの心は喜び、  
und eure Freude soll niemand von euch nehmen.
喜びは誰からも奪われることはない。
(ヨハネによる福音書16:22)

Sehet mich an:
私を見よ。 
Ich habe eine kleine Zeit
私はわずかな時間を
Mühe und Arbeit gehabt
骨折りと労苦にかけるだけで
und habe großen Trost funden.
大きな慰めを見いだした。
(シラ書51:27)

Ich will euch trösten,
私はあなたたちを慰めよう、
wie einen seine Mutter tröstet.
母親が子どもを慰めるように。
(イザヤ書66:13)

●第6楽章
Denn wir haben hie keine bleibende Statt,
ここには私たちの永遠の地はなく、
sondern die zukünftige suchen wir.
来るべき地を探し求めている。
(ヘブライ人への手紙13:14)

Siehe, ich sage euch ein Geheimnis:
見よ、私はあなたたちに奥義を話そう。
Wir werden nicht alle entschlafen,
私たちは皆眠るのではなく、
wir werden aber alle verwandelt werden;
それどころか、まったく変えられるのである。
und dasselbige plötzlich, in einem Augenblick,
そのとき突然、瞬く間に、
zu der Zeit der letzten Posaune.
最後のラッパの時のことだ。
Denn es wird die Posaune schallen,
つまり、ラッパが鳴り響くと、
und die Toten werden auferstehen unverweslich
死者は朽ちることのない者として復活し
und wir werden verwandelt werden.
私たちは変えられるのである。
Dann wird erfüllet werden das Wort,
そのとき、言葉が成就する、
das geschrieben steht:
それは書かれた言葉だ。
Der Tod ist verschlungen in den Sieg.
死は勝利のうちにのみこまれた。
Tod, wo ist dein Stachel?
死よ、どこにおまえの刺があるのか?
Hölle, wo ist dein Sieg?
地獄よ、どこにおまえの勝利があるのか?
(コリント人への手紙一15:51,52,54)

Herr, du bist würdig
主よ、あなたはふさわしい
zu nehmen Preis und Ehre und Kraft,
賛美と誉れと力を受け取るのに、
denn du hast alle Dinge erschaffen,
なぜなら、あなたは万物を創造し、
und durch deinen Willen haben sie das Wesen
また、万物はあなたの意思で存在し、
und sind geschaffen.
生み出されたのだから。
(ヨハネの黙示録4:11)

●第7楽章
Selig sind die Toten,
幸せだ、死者は、
die in dem Herrn sterben, von nun an.
主のうちに死ぬ者は、今より後に。
Ja, der Geist spricht,
そうだ、と聖霊は言う、
daß sie ruhen von ihrer Arbeit;
彼らは労苦から解き放たれる、と。
denn ihre Werke folgen ihnen nach.
彼らの業が後からついてくるのだから。
(ヨハネの黙示録14:13)

注1)「ラビ」は、ユダヤ教のおける宗教的指導者・学者のこと。イエスの活動は、ユダヤ教内での改革運動として始まった。
注2)アラム語聖書に基づく。「彼らは幸せだ」の意。ただし、イエスはヘブライ語で語った可能性もあり、その場合は「アシュレー」かもしれない。
注3)イェホシュアをギリシャ語にするとイエスースとなり、ラテン語ではイエズス(呼びかける場合はイエズ)となる。キリストとは、ギリシャ語のクリストスが語源で、「油を注がれし者」(=王ないし救い主)の意。

0 件のコメント: